「医学探偵ジョン・スノウ」サンドラ・ヘンペル著 日本評論社 ★★★★
疫学という学問は、残念ながら一般にはあまり知られていない。昔の伝染病を研究する医学分野のようなイメージを抱きがちだが、ネット検索すると『疾病の罹患など健康に関する事柄の頻度や分布を調査し、その要因を明らかにする科学研究』という定義が出てくる。かつては伝染病の原因を探ることが主眼とされていたために「疫」という漢字が使われているが、現在では例えば胃がんの原因病原体としてピロリ菌の存在を証明したりなど、伝染病以外の様々な疾患の病因を統計的手法を駆使して探る重要な役割を果たしている。医学書で様々な疾患の概略が説明される際には「疫学的手法によれば...」という一文が必ずと言っていいほど見られ、好発年齢や発症確率、特徴的な家族歴・既往症・生活習慣などが記されている。これにより読み手は疾患のイメージをより巨視的に抱くことができ、日々の診断行為にも役立っている。
疫学の始祖といわれているのが、イギリス人の医者・ジョン=スノウである。1813年に生まれたスノウは、イギリスで1830年代に猖獗を極めたコレラ禍に際し、当時有力視されていた瘴気説(汚染された空気が病気を引き起こす)に疑いを抱いて、実際の症例を詳しく調査し始める。彼はコレラが発生したスラム地区をくまなく回り、病人の出た家を地図に一軒一軒プロットしていく。ORS(経口補水液)も存在せず、多くの患者が発病から1日も経たずに高度脱水で命を失っていた当時、その調査は命懸けであった。その結果スノウが得た事実は、最初の患者の汚物を洗った汚水溜が、飲用に使用される井戸から90cmしか離れていなかった事と、その井戸水を飲まなかった人から患者がほとんど出なかったということであった。そして、その汚水溜は老朽化して内部が崩れ、井戸に流れ込んでいたという事実も追って明らかにされた。その過程は本書に詳しいが、まさに「医学探偵」であり、我々読者も2世紀の時を隔てた謎解きを追体験できる。ページがどんどん進むであろう。
本書によると、それでも当時の医学界は瘴気説に固執したらしい。スノウが調査したスラム地区には、悪臭を排出する様々な工場があり、「汚い空気」に覆われていたもの事実だったのだ。どちらの説が正しいか簡単には決着はつかず、最終的にはコッホによるコレラ菌発見を待つしかなかったのだが、井戸を封鎖すると患者発生が止まるという事実は次第に広く共有されるようになっていく。細菌の存在を知るための技術が生まれる前に、いわば間接的証拠からその「存在」を仮説化し、井戸の封鎖という対策を進めたスノウの行為は、科学者として立派なアプローチといえよう。疫学の世界では、スノウの業績をまず最初に習うらしいが、高校理科など一般的な教育でもこの科学的アプローチを扱うべきではなかろうか。良い本に出会った。

